内容


「ただ一向に念仏すべし」

一枚起請文に曰わく
「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」
この言葉は皆さんご存じの一枚起請文の最後の締めの言葉となっております。

 


一枚起請文前半に「ただ往生極楽の為には、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候わず。」と有ります。
「この往生極楽の為には」とつなぎまして「往生極楽の為にはただ一向に念仏すべし」とすることで法然上人のお伝えになりたいことが分かるというものです。
「ただ一向に念仏すべし」で有ります。
「ただ念仏すべし」ではなく「一向に念仏すべし」です。
「一向」とは「一向き(ひとむき)」つまりはひたむきに、ひたすらという意味や一つの方向にという意味があります。
つまり「ひたむきに念仏もうしなさい」と云われて居るのであります。

 


法然上人は日課念仏六万、晩年には七万遍お称えなさっていたそうです。
歩いていても何か作務をしておられていてもいつでもどこでもなさっておられたそうです。
それも「歩きながら、仕事をしながら念仏をしておられた」のではなく「念仏をしながら歩いたり仕事をしておられた」のであります。
しかし、この「一向に念仏を申す」と云うことが我々難しいのです。
中々ひたむきにお念仏を申せない、、、これが実情ではないかと思います。
思い立ったとしても一気に法然上人のようになることはそれは難しい事です。

 


一つお念仏を毎日称える為に良い習慣をつけて見るのはどうでしょう。
お風呂に入っている時、もしくはおトイレでもかまいませんので今日一日を振り返り「今日の一日はどうやったやろか?明日はどう過ごそうか?」と考えながら お念仏を申されるのは如何でしょうか?。
そして「自分はどんな人でありたいか?」よく考えてみるのです。
心の奥の奥にある自分をよく見つめて見てください。

 


2010/04/01